友達

 

別に友達なんて必要ないのだ、言ってしまえば。過去の自分を振り返ると、やたら他人に対してあーだこーだ言っているが、もうそんなのは気にしなければいい話だ。

というか私は、「友達」がいると、ダメになってしまうような気がする。どんどんボロが出てきてしまう。仲良くなれば仲良くなるほど。

 

部活の後輩に、やたらと他校を目の敵にする子がいた。嫉妬だろうな。んでその子が悪口を言っていると、私までつられて悪口を言ってしまったりするのだ。別に本心では他校とかあんまり気にしていないのに。どうしてだろう。人がいると、あることないこと出てきてしまうのだ。もしかして心の奥底にある憎悪が表まで出てきてしまうのか?どちらにせよこれはよろしくない。マイナスワードがぽんぽん出てきてしまうと、その発言がラインを超えてしまった場合、結局自分のイメージダウンにつながるからだ。加えて、自分には少なからず情緒不安定なところがあると思う。それも自分の意思に反して予期せず出てくるわけだから、周りを裏切ってしまうのだ。

 

「あの人ってそんなこと言うんだ、なんか残念だね」

「優しい人だと思っていたのに」

 

ちがう。そもそも私は優しくなんかないんだ。最初から嫌われるより、あげて落とされる方がよっぽどキツイ。

 

…とまあ、こんな感じのシチュエーションを書いてみたんだけど、実際にこんなことがあったかなぁ、と思い出そうとしても、なかなか該当するエピソードが脳内にないんだよな。被害・加害妄想でも働いてるのか?それとも知らず知らずのうちにどんどん信頼できる人をなくしていってるのか?ただ忘れただけ?記憶がふわふわしててよくわからないのだけど。

 

いまやっているとりあえずの対処法としては、ネット――それも「ソーシャルメディア」と呼ばれるものから距離を置く、ということだ。前述の結果私はネット向いてないんじゃないかと思った。X(旧Twitter)はできるだけ見ないようにしている。ネットというのはとてつもなく魅力的なものだが、同時に誹謗中傷だの心のない言葉たちにさらされることになる。あと情報が多すぎて疲れる。

そして、代わりにアナログの良さを感じるようになってきた。

 

手紙やコラージュノートを始めるようになったのは、そういうことだ。

ある程度ネットから離れて(といっても離れられないけど)目を休められるし、何より、書くときに「考えられる」のだ。手紙はLINEと違って打ってすぐ送り返さなければならないものではない。書くときに文章を考えて、文字を書き間違えないように、細心の注意を払わなければならない。焦ると失敗しやすい私にとっては、ゆっくり落ち着いて考えて書けるのはいいことだ。コラージュノートは作っている時が楽しい。真っ白だったノートがシールやマスキングテープや学校新聞のスクラップで埋まっていくあの時間が楽しい。そして、作った後はいつでも手に取って見返すことができる。苦手な記憶の保持も可能だ。インターネットのように世界中に知れ渡るものではなく、閉鎖的で自分とその友達だけで楽しむ。こっちの方が自分に合っているんじゃないかなぁ。

 

 

別に友達なんてそんなにいらないのだ。

ちょっと、気心の知れた人に手紙を送ったりして返事を待って過ごすのが一番私にとっていいことに気づいた今日この頃。