子供のころ、ゲームが欲しかった。それはそれは死ぬほど欲しかった。でも、親が買ってくれなかった。なんにも買ってくれなかった。
しかし最近、その状況も大きく変わった。我が家にやっと、悲願のSwitchがやってきたのだ。早速弟と親はマリオカートやスマッシュブラザーズを遊んで、楽しんでいた。
…私はなぜだか楽しめなかった。ゲームの向き不向きじゃなくて、なんだか心にむなしさを覚えた。なぜだろう。
ゲームさえろくに集中できない
私は、長い間ゲームの動画勢として生きてきた。れっきとしたYoutube廃人だ。ゲームはYoutubeのなかのアトラクションであって、実際にコントローラを握ってするものではない。それが当たり前だった。
動画は見るだけなので楽だ。ゲームは最低限自分で話を進めなければならない。動画勢スタンスで十数年の年月を過ごした私にとっては、もともとのどんくささも加味されて、ゲームさえ集中してするのが難しいのだ。10分も遊べば、脳が疲れてくる。ボスをうまく倒すことができず、途中でやめてしまった。へたくそなので、周りのうまい人たちとなじめなかった。過去の経験が、ゲームに対しての苦手意識を強めすぎて楽しめなかったのかもしれない。
ゲームが好きなのに、そもそもゲームがまともにできる体ではなかった。実際ゲームをまともに遊んだこともない。それで「ゲーム好き」と言えるのか?無理だろう。そんな自分に対してのやるせなさ、ゲームに対するむなしさがあったのだろう。
でも、おなじYoutube廃人である弟は、素直にゲームを楽しめている。なぜか。
きっと彼は小学生だからだろう。子供の時は、どれくらいだって集中力があるし、いろんなことも初めての経験だから楽しめるのだろう。でも、私は違う。なにもかも楽しく遊べた時期をとっくに過ぎてしまったのだ。
そもそもの疑問として、私はどこをどうとってゲームが好きという気持ちを生み出したのだろう?
ゲームの世界観が好き
ゲームにおける世界観の作り方〜文豪とアルケミストの場合 - DMM inside
私が思うにゲームとは、さまざまな技術の集合体だ。下の図を見てほしい。
ふだん1ミリもゲームしてないやつがこんなのを力説するなんて滑稽だな。
とにかく、ゲームにはいろんな開発に携わった人たちの努力が通常は詰まっている。それも幅広い範囲のものが。ゲームとは、ひとつの「作品」なのだ。
でも、どちらかというと私はゲームの世界観を眺めているのが好きで、それゆえゲーム本体を動かすことは想定しておらず、実況動画ばかり楽しんでいたのでは?
(まあ、遊んだこともなかったから、そんな選択肢なんてないもんな)
この考えだと、自分がカービィのようなファンタジックな作品が好きで、リアリスティックな作品があまり好きではないことにもつじつまが合う。
小学生の時にゲームに触れられなかったのは不運だったが、これから自分が本当に欲しいと思う、出会ってよかったと思えるソフトが現れるとは思うので、焦らずにいきたいな。