伝えたい。伝わらない。

 

私は以前、放送部の活動で番組を作ったことがある。いわゆるドラマだ。内容は「どうしても自身の現状を変えることができない人」が直面する人間関係のトラブルや葛藤を(自分的には)描いたものだった。学業や理不尽な扱いにも耐え、毎日原稿と向き合い、なんとか締め切りまでには完成させた…しかし、結果は散々だった。

 

「頑張る人は報われる」ということは、逆に言うと、「頑張らない人は報われない。」もっと言えば、頑張れない人は、一生親われることはない。障害者の話になるといつもそうだ。障害者は「努力」をして頑張って頑張って何とか健常者のラインに自分を持ってこようとする。そう、頑張らないと普通の生活を送ることができないのだ。自分が放送の番組の大会で見てきたものも、障害者が「努力」をして、最終的にそれが実を結ぶ、という美談ばかりが目に付いた。テレビの番組も同じような内容の番組が多い。例を挙げるなら24時間テレビなどである。そういうことを社会から強いられて頑張れる人はいい――ただ、世の中には、どうしても頑張れない人たちがいる。

 

「ケーキの切れない非行少年たち」という書籍の事を知り、やっと自分が番組の中で描きたかったことが分かった。

 

私は、頑張れない人を描きたかった。作品の中での主人公は、いわゆる頑張れない人だ。自分で頑張って勉強しようとしても、当たり前のことさえろくにできない。情緒不安定で、人からの支援さえ悪口だとみなして激しく動揺する。結局その感情を消化できずずっと引きずる。非常に不安定な人間らしさを含めた人間――それを描こうとしたが、失敗した。なぜか?自分の主観しか入っていなかったからだ。こうすればみんな分かってくれるという空虚な期待だった。情景描写が足りな過ぎたうえに、自分が本当にドラマの中で伝えたかったことがかすんでしまった。編集ももっとしたかったのに。

 

ハッピーエンドはその番組を見る人にとっても気持ちいいものだが、安易に「頑張る」描写を入れてはいけない。そのキャラクターの気持ちを、立場をないがしろにしてはいけない。そう自分は思っている。生々しいほど、生き生きしているほど、作品は面白い。しかしあまりに物語が暗すぎても、それはそれで審査員受けしない。物語においてのリアリズムの匙加減は難しい。

 

大会を経験していく中で、自分の価値観が県の大会の審査員たちと大いにずれていることが分かってきた。自分の価値観自体はそのまま自分の中にしまっておけばいい。いつかはどこかできっと評価される日が来るだろう。しかしそれはいつになるのだろうか…